愉楽の園 宮本輝 文藝春秋 1989年3月





 同じ筆者の本を続けて読むのは久しぶりです。なんとなく手に取っていました。読後感は不思議な味わいといったらいいのでしょうか。
舞台はタイの首都バンコクです。今までタイを舞台にした本は、三島由紀夫の作品『暁の寺』だけしか読んでいません。
そういう意味では異色の小説と言っていいのではないでしょうか。美人の女性、藤倉恵子はタイの高官と知り合い、結婚を迫られます。しかも彼女の周囲にはたくさんの人間が登場し、策謀と嫉妬が渦巻くのです。
そのベールをひとつづつめくっていくのが偶然友人に会うため、タイを訪れた野口という男です。
登場人物は輻輳していますが、けっして描写は誤っていません。タイの持つ不思議な空間の魅力はあのチャオプラヤ河の周囲に醸し出される喧噪と等価でしょう。貧困を誰も羞じてはいません。その中でしたたかに生きていきます。しかし貧富の差は厳然と存在します。
メイドやガードマンの描き方も秀逸です。彼らの心の中をうまく描き出しています。
さて、他人の書いた小説を自分のものにするため、政府高官は一人の人間を自死させます。あるいは殺人であったのかもしれません。そのことを暴かれそうになり、しかしそれでも平然と出版パーティの席上で、婚約者である主人公、恵子を紹介します。王室に血の繋がる人間は、タイでは絶対的な権力を持つのです。
彼女は野口に心惹かれながら、それでもこのタイの喧噪の中で生きていく自分を許そうとします。
現在よりもはるか以前の作品ですが、内容は古びていません。タイを旅行したぼくにとって、懐かしい風景がたくさん出てきました。しかしけっして観光小説に堕してはいません。
人間の心の闇を描いています。なぜ恵子はこれだけ汚れたタイの深部を見ながら、野口の後を追わなかったのか。そこにまたこの小説の醍醐味があるのです。