喜知次 乙川優三郎 (講談社) 1998年2月





 香気あふれる小説です。自分の出生を知りながら、その宿命に抗うことなく健気に生きていく女性、花哉の一生を描いた作品です。
上士の家にもらわれてきた女性と、その家の息子、弥平次との淡い恋を中心に話は展開していきます。
藩は二つの派に分断され暗殺なども起こります。その中には親友の父親もありました。飢饉にからんで、農民に殺された風を装い、事実は反対派に刺殺されたのです。
親友の二人はそのことによって、人生に大きな変化が起こります。
弥平次は祐筆の父の跡を継ぐべく勉強を続けますが、それよりもどのように藩政を立て直すべきかに悩み続けます。
そのことで領内の各地を歩き、さらに見聞を広げていくことになります。
しかし藩内の事実を知ればしるほど、悩みも増えていきます。それを癒してくれるのが花哉でした。
しかし彼女は国学の勉強に生きたいと告げ、決して弥平次の妻になろうとはしません。しかしそこにも彼女なりの苦悩がありました。
自分がこの家の庶子とひそかに知らされていた故に、息子である弥平次との結婚は出来ないと思い込んでいたのです。
しかし彼は養子にやってきた立場にありました。そのことは誰も知らず、弥平次自身も最後に母から打ち明けられます。もちろん、彼女が父の生ませた子であったことも、彼は知らされていませんでした。
花哉だけがそのことを知っていたのです。
人の一生はそれぞれの宿命に色濃く塗られたものなのかもしれません。
筆者の本にはそうした人間の宿命という考え方が強く出てきます。あまりに悲しい幕切れではありますが、それが少しも違和感無く進むところに並々でない筆力を感じます。
喜知次とは最初に弥平次が名づけた花哉の愛称です。ありふれた魚の名前で、成魚はアカジとよばれるほっそりした魚です。
いつも花哉を呼ぶ時、彼の心は自然な優しさに包まれていました。
いい小説です。乙川優三郎はうまい文章を書くのはもちろん、人の哀しみをよく知っている作家だと思います。
最後にできたら、もう少し花哉の内面に入って、彼女自身の側からの書き込みがあれば、もっといいものになったのではないでしょうか。時代小説大賞受賞後第1作の作品です。